お坊さんからのお知らせ
勇猛精進日記

〜お坊さんメモ〜その23〜

2019年07月22日

各周忌、回忌を司る仏様をまとめてみました。
〜お坊さんメモ〜その23〜では四七日を司る普賢菩薩の紹介です。
忌日:四七日
逆修日:四月十四日
三昧耶形:五股杵、賢瓶
種子:ウン
真言:オン サンマヤ サトバン
説明:普賢菩薩という名前は「すべてにわたって賢い善である菩薩」という意味である。釈迦如来の脇侍として文殊菩薩と一対となることが多いがその場合は白象に座す姿に変わる。白象に座していることから何者にも動揺しない不屈の意志力を表し、獅子に座する文殊菩薩と共に釈迦三尊を形成することになる。普賢菩薩は亡者が釈迦如来の教えを実践していく導く菩薩である。「普く賢いもの」という意味を持つ普賢菩薩は釈迦如来の教えを徹底的に実践していくことを表しており、その誓願を十大願と呼ばれる十種の誓いが『華厳経』などの経典に説かれている。その十大願は虚空が尽き、衆生および煩悩が尽きるまで不滅とされるので普賢菩薩は行願を象徴する菩薩ですぐれた菩薩行の仏とされている。その身相と功徳は普く一切の所に及ぶと説かれており、あらゆる国土に自在にあらわれ説法するとされる。密教では悟りを求めて努力する存在である菩薩の代表、金剛薩埵と同体であると『金剛頂経』50では考えている。そして『大日経』では悟りを求める心、菩提心を司る仏として重視している。真言であるオン サンマヤ サトバンは密教で重視する三昧耶戒の真言と同じであり、悟りを自らの内に体得しようという誓いを表明したものである。胎蔵曼荼羅では中台八葉院の四菩薩として住し、文殊院にも登場している。金剛界曼荼羅では賢劫十六尊の一尊である。また『理趣経』では一切平等建立如来と同体である。
画像:画僧 牧宥恵 作 「正楽院大曼荼羅」胎蔵曼荼羅より

正楽院新盆合同供養のお知らせ

2019年07月12日

〜正楽院新盆合同供養のお知らせ〜
日時:令和元年7月13日(土)午後4時〜
場所:正楽院 本堂
お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言います。ご先祖様の精霊を迎え追善の供養をする期間を「お盆」と呼びます。
13日の夕方に迎え火を焚き、ご先祖様の精霊を迎えます。16日の夕方、送り火を焚きご先祖様にお帰り頂きます。
お盆とは、陰暦7月15日の前後数日間をいい、新仏やご先祖さまの精霊をわが家に迎え供養し、家族と亡き人が共に過ごす期間です。「盆供」「魂祭」ともよばれ、また、四十九日忌の法事が済んで初めて迎えるお盆のことを「新盆(にいぼん)」「シン盆」「アラ盆」などと呼びます。
「お盆」という言葉は正確には「孟蘭盆」といい、インドの古い言葉「ウランバナ」を中国で音訳したものです。お盆の由来については『仏説孟蘭盆経』に次の様に説かれています。
お釈迦さまの十大弟子の一人に、あの世まで見通せる千里眼を持った神通力第一といわれる目連尊者がおられました。その目連尊者がある日、亡くなった母親をその神通力で探してみると、驚いたことに母親が餓鬼の世界に堕ちているではありませんか。餓鬼の世界とは、どんなにおなかが空き、喉が渇いても食べることも飲むこともできない、飢えと渇きの苦しみの世界です。目連尊者の母親も食べ物や水を口もとに運ぶと、それはたちまち炎となって燃え上がり口にすることが出来ません。
悲嘆に暮れた目連尊者は、何とかして母を救うことは出来ないものかとお釈迦さまに教えを請いました。するとお釈迦さまは説かれました。「汝の母は、生前の物惜しみをし続けた悪業のために餓鬼世界に堕ちたのである。その悪果から救うために、7月15日は安居(あんご=一定期間の修行)を終える日も修行僧たちに百味の施食供養をし、そのようにして積んだ功徳を餓鬼道で苦しんでいる者のために回向しなさい」と。そこで、目連尊者が教えにしたがって供養すると、母親は餓鬼の苦しみから救われ天界に往生したのでした。
この経典の教えがやがて新仏やご先祖さまに対する感謝、そして追善供養の気持ちへとつながり今日のお盆となりました。日本ではおよそ1300年前から行われ、江戸時代になると各家で「精霊棚」を作り、ご先祖さまの霊をお迎えしてお祀りするようになり、菩提寺の住職がその精霊の冥福を祈るために各家庭を訪問し読経する「棚経」が始まりました。
お盆は亡き人への思いを新たにする機会であり、ともすれば忘れがちになるご先祖さまから連なる歴史の積み重ねの上に今日の自分があるという「いのちのつながり」に目覚める時でもあるのです。

〜お坊さんメモ〜その22〜

2019年07月09日

各周忌、回忌を司る仏様をまとめてみました。
〜お坊さんメモ〜その22〜では三七日を司る文殊菩薩の紹介です。
忌日:三七日
逆修日:三月二五日
三昧耶形:智剣、梵篋
種子:マン
真言:オン アラハシャノウ
説明:「三人よれば文殊の知恵」と言われるように、般若という智慧の象徴とされ『般若経』をはじめとする大乗経典では釈尊や仏弟子の問答の相手として重要な位置をしめしている。また、文殊菩薩を主題とした経典によれば文殊菩薩は実在の人物として描かれているが定かではない。『華厳経』では文殊菩薩が東北方の清涼山で常に説法をしていたとされ、『文殊師利法蔵陀羅尼経』49では、振那国の五頂という霊山に住んでいると説いていることから、中国の清涼寺のある五台山が文殊の霊場とされている。いつも普賢菩薩と密接な関係を有し、普賢菩薩の十大願は、この文殊菩薩の問に対して答えられたという説もある。すぐれた智慧を象徴する菩薩であり般若の智慧を完全にそなえて盛んに説法するため、三世の諸仏は皆文殊菩薩を母とし三世覚母と称されている。文殊菩薩は汚れを知らない青年の姿をしており身体の色は最も尊い金色で五髻のある頭の上には宝冠をかぶり、その後ろには円光が輝いている。そして右手には悟りの障害となる煩悩を断ち切る金剛剣(利剣)を握り、左手には梵篋の乗った青い蓮華を持っている。この梵篋には『般若経』が入っていて、梵篋を金剛杵で表す場合もある。また獅子の上の蓮華台に座っている尊像もある。『理趣経』では一切無戯論如来と同体で、胎蔵曼荼羅では文殊院の主尊であり、中台八葉院の四菩薩としても西南に住している。
画像:画僧 牧宥恵 作 「正楽院大曼荼羅」胎蔵曼荼羅より

令和元年 正楽院大施餓鬼会のお知らせ

2019年07月05日

【令和元年 正楽院大施餓鬼会のお知らせ】

人間らしく生きていく道を教えてくれるのが、施餓鬼(せがき)。皆様のご先祖様への供養の願いを込めて、お施餓鬼の法要を行います。
令和元年7月7日(日)
午後2時:ご法話
「生きることについて」
本山特派布教師 日野市 徳善院山主 速水基裕僧上
午後3時:大施餓鬼会法要

施餓鬼の由来は「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経」に説かれています。
お釈迦さまの弟子の阿難尊者が主人公です。
阿難尊者はお釈迦さまの身の回りの世話をし、一番多くの教えを聞いたので多聞第一といわれ、十大弟子の一人にも数えられている方です。
阿難尊者が一人で静かな場所に座り学修している時のことでした。
夜も更けた丑三刻「焔口」という名の餓鬼があらわれました。
その姿は、身は醜く枯れ細り、口からは火を吹き、喉は針の先のように細く、見るのも恐ろしい形相でした。
餓鬼は阿難の前にじっと座り、そしていいました。
「阿難よ、お前の寿命はあと三日で尽きる。死んだ後は餓鬼となり、私と同じような醜い恐ろしい姿になるだろう」
びっくりした阿難は餓鬼に、
「どうしたら、その苦をのがれることができますか」 と尋ねました。
「明日の朝、無数の餓鬼とバラモン(司祭者)に多くの飯食(お供物)を用意しろ。そうすれば、その功徳によってお前の寿命は延び、私は餓鬼の苦を離れ天上に生まれることができるだろう」
阿難尊者は恐れに震えながら、お釈迦さまにどうしたらそれほどたくさんの食物を用意できるか、助けを求めました。するとお釈迦さまは
「限りない功徳があり、勝れて巧妙な思うがままの妙力をそなえる陀羅尼」を示し、
「心配しなくてよい。この呪文を唱えながら餓鬼に食物を布施しなさい。
そうすれば僅かな一食でも、たちまちにたくさんのおいしい食べ物になり、
無数の餓鬼を満足させることができるだろう。
またバラモンにも心のこもった食べ物を布施することになるだろう」
と教えました。
餓鬼とは地獄・餓鬼・畜生という三悪趣の一つで、飢えと渇きに苦しむものをいい、地下深いところに住むといわれています。
そして水を見つけても血膿となって飲むこともできず喉が針のように細いので食べ物を腹一杯食べることもできず食べた物が口の中で火となって燃え、結局食べることができずに苦しんでいるものです。
では阿難尊者の目の前に現れた餓鬼とは何を意味しているのでしょうか。
その醜い姿は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。
子供は目で食べるといわれています。
食事が済んだばかりでも、お菓子を見つけると食べたがります。
大人からみれば十分食べて満腹のはずなのに、本人は目の前の食べ物に心を奪われ、自分の腹具合を考えません。
つまり、満腹を知りません。このような限りない物欲が餓鬼なのです。
阿難尊者が見たものは、自分の心の中にある物欲にほかなりません。
物欲に支配されていると自分本位に走り、人を差別したり、傷つけたりします。
そこでお釈迦さまは物欲に支配された醜い心を洗い清らかにしていく手だてとして、布施の修行を示し、三宝の供養を教えたのです。
自分だけ腹一杯になれば、それはそれで幸せでしょう。
しかし、それではどこまでいっても物欲に支配され自分で自分を縛ることになります。他人の腹具合を考え、ものを分かち合う時に初めて自分に縛られないもっと大きな安らぎがあることに気がつきます。
私たちが生きていく上で避けてとおれない「食欲」をたとえにして人間らしく生きていく道を教えてくれるのが施餓鬼であり、ものを分け与えること、いいかえれば回りの人々の役にたっていくことが、布施の修行の意味なのです。
南無大師遍照金剛

真は荘厳より起こる

2019年07月02日

「信は荘厳より起こる」を「真は荘厳より起こる」に変えて、
私が好きな言葉です。
ものごとの深い内実や内容が時に形式や外観から導き出され顕わになるという例えであります。
荘厳とは美しく飾り立てること立派に建立すること。
信心・信仰は心の問題であるが、そのはじめは神社仏閣の荘厳な装飾や豪華な建築の美しさに感心したり、感動したりすることから起こるものでもあり、外観・外貌をしっかりと整えることの大切さを伝える言葉であります。